本日、ただいま誕生!
従業員のお給料袋の中に 毎月わたしのお便りを入れています
その便りは『キラ☆ナビ通信』と言って、私が読んでほっこりした話や、元気が出た話、感動した話を短く書いた『社長便り』です
実際にその話をみんなが本当に読んでくれているかは謎だけど(^ω^;)、でもお給料袋を開けた時に、元気がないスタッフや落ち込んでいるスタッフ、心がトゲトゲした状態のスタッフがいたら、それを読んだことで少しでも肩にのっているものが軽くなってくれたらいいな~と思って書いています
昨日のお給料袋の中に入れた『キラ☆ナビ通信6月号』の話は、私がとてもとても大好きな話なので、今日はここでご紹介したいと思います。足なし禅師と呼ばれた禅僧・小沢道雄師のお話です。
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おっさま(和尚さま)は大東亜戦争に従軍し、北朝鮮で終戦をむかえました。
シベリア抑留中に、逃げようとした戦友を止めようとして前に立ちはだかったため銃弾が右肩を貫通。昭和20年(1945)11月、治療のために満州の牡丹江の陸軍病院まで貨車に乗せられて運ばれるのですが、これがおっさまが見た”地獄の入り口”でした。
貨車には強制労働ができなくなった元日本兵約500名が乗せられていました。
北満の11月といえば気温は氷点下40〜50℃。暖房はもちろん食べ物もわずかしかない状態で、終戦時の夏服のままですから、その寒さと空腹は想像を絶するものがあったはずです。支給された食料は黒パン一個、飲み水もままならず、三日間を費やした行程で冷凍人間となった元兵士の半数が命を失いました。
おっさまは一命を取り留めたものの足に”重度の凍傷”を負ってしまいます。
陸軍病院とはいっても医薬品や医療器具、食糧は極度に欠乏していました。ペチカ(暖房)のある暖かい病室に寝かされた喜びは束の間、やがておっさまの両足は内科の軍医さんによって麻酔もないまま、メスとノコギリで切り落とされるのです。
メスを執った軍医がしばらく祈るように目を閉じた姿を見て、おっさまはこの軍医に切られるなら本望だと思い定めました。
私がおっさまの自伝『本日ただいま誕生』で、衝撃のあまり言葉を失ったのも、この件(くだり)でした。思うだけで息が詰まりそうですが、ここはおっさまの言葉をそのまま紹介します
「最初のメスが私の脛の肉を切り裂いた。一瞬、私の歯がカチンと噛みあい、全身がギリッと音をたてて硬直した。それは痛いなどという言葉とは別である。『痛い、痛い、痛い』と百万遍さけび、その百万遍の痛さを一瞬間に凝縮したとでも言えばいい。私は想像を絶した痛さに身体を硬直させたまま呼吸をすることができない。 だが私の肺臓はある時間がくると自分勝手に空気を吸い込み、空気を吐き出す。すると喉のあたりで異様な音がでる。声というよりは単なる音というべきだろう。なぜなら私はこの2時間のあいだ、痛さのために喚いたり呻いたりした憶えはないからだ。凄まじいばかりの激痛を自覚しながら、私はまるで軍医と一緒になって自分の足を切っていくような気持ちを味わっていた」
手術時と同じこの痛みは、それから一ヶ月続いたといいます。
徐々に痛みに馴染むにつれ、おっさまは自分が置かれた現実を直視するようになります。両足を失い右手も満足に使えない体を思えば、そこにあるのはただ絶望のみでした。
労働は無理と判断され帰国命令がくだったのはその半年後。牡丹江からハルビン、奉天を経てコロ島まで、千五百㌔を徒歩で行くことになりました。歩けない者は担架に担がれ、おっさまを担架で運ぶ健康な4人の兵士とともに帰国することになりましたが、いざ歩きはじめると”歩けないおっさま”をお荷物と感じたのでしょうか、出発して三日目のある朝、担架の上で目を覚ましたおっさまは、広大な荒野に一人、おいてけぼりを食らったことに気づくのです。
あらん限りの大声で叫びます。
折よく通りかかった北満から引き揚げ途中の開拓団に救われたのは、僥倖(偶然に得る幸せ)というほかはなかったそうです。晩年よく「あの時は本当に仏さんの計らいだった」と感慨深げに話しておりました。
崖っぷちを辿るようにして奇跡的に帰国したおっさまは、福岡で再手術を受けます。
その頃、おっさまはある深い悩みを抱えていました。それは自分の”惨めな姿”をさらすことで、家族を悲しませてしまうことでした。
復員の知らせを受けた山梨の母と弟が神奈川の病院に見舞いに来た時に、おっさまは思い切って両足を見せて、こう言いました。
「いっそのこと死んでしまおうと思ったが、帰ってきました」
それを聞いたお母さんはベッドに近寄り、しばらく包帯の上から傷口を撫でながら、「よう帰ってきた…」とポツリと言いました。そして、お兄さんがフィリピンで戦死したことを静かに告げるのです。
お母さんは誰よりも頼りにした長男を戦争で奪われ、未亡人となった嫁と妹さんの3人で農業をしながら細々と暮らしていました。身体障碍者となった自分にいったい何ができるのか。それを思うと、おっさまは底知れぬ絶望の淵に落ちていき、お母さんの悲しみと自分の非力さを思い、毛布をかぶり声を殺して泣いたそうです。
懊悩の日は続きます。気持ちはどうしても死に傾きます。
幼い頃、親戚の寺に養子に入っていたおっさまは、そういう絶望のドン底で必死に観音様に祈り、救いを請いました。『観音経』には「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」と唱えれば観音様は人間をあらゆる苦悩や厄災から救ってくださる、という教えがあります。
しかし、どんなに祈っても答えは返ってきません。「願いが聞き入れられない、自分は仏に見捨てられた、もう甘えるのはやめよう」と決心したとき、心の底から”ある閃き”が湧いてきます。
比べるから苦しむのだ。
比べる元は27年前に生まれたことにある。27年前に生まれたことを止めて、今日生まれたことにしよう。両足切断の姿で今日生まれたのだ。そうだ、本日たったいま誕生したのだ。
足がどんなに痛く、足がなく動けなくとも、 痛いまんま、足がないまんま、動けないまんま、 生まれてきたのだから、何も言うことなし。
本日ただいま誕生!
深い深い覚悟です。
微笑を絶やさない、
人の話を素直に聞こう、
親切にしよう、
絶対に怒らない
おっさまはこの4つを心に決め、その後の人生はこの言葉を軸に展開していきます。
~小澤道仙(おざま・どうせん)さんのお話より~ 小澤道雄(おざわ・どうゆう)師の妻
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